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 空   よ
私の家から見えるきぼうこども園
 今年も暑い夏がやってきた。手入れの行き届いた水田、青々とした稲の上を吹き抜けていく風を見た。その中に美しい小学校が見える。
 現代は五條市立きぼうこども園・阪合部公民館である。

 私が小学校にいっていた頃はそこには小学校はなく、ただ広い水田であった。遠い昔の想いに耽っていると、小学校に入ったころを思いだした。

 グループ活動は幼いころから苦手だった。戦後の新教育制度の始まった年に、小学校に入学した、1つの机に3人が座って勉強した。それは戦争が終わったが帰ることが出来ない疎開している子どもたちがいたからだった。勉強の出来る環境ではなく、騒がしい教室の雰囲気が嫌で毎朝学校に行かないといって駄々をこねた。

 家の近くにバス停がありバスを降りた先生が毎朝私を連れにきて、片方の手を先生に、もう片方を姉に引かれて、私は必死に抵抗して、学校へ行くものか、泣くものかと歯を食いしばり足を突っ張った、砂利道を2本の足跡を残し学校まで連れて行かれた。それが3年生の終わりまで続いた。

 今で言う不登校児だった。だから、小学校からの帰りはいつも1人だった。田植えが終わった田に続く水路が県道に沿った私の家の横を通って水が勢い良く流れていた。草の葉を取って折り曲げ、笹舟を作り、水路に流して競走して家まで帰った、それが楽しかった。

 学校に行かないといって駄々をこねた頃の記憶のうちに、2・3年生の時の持ち上がり担任の、美子先生のことが今も心にある。
 戦争も終わった物の無い時代、働いた上に働いていた両親、甘えることも、すがることもできなかった。幼いながら心の中にその寂しさが大きくあったのだろう。かたくなに周囲に打ち解けようとしない私に、先生は2年間に亘り学校に、学級に馴染むよう導いてくれた。お蔭でその後の小・中学校生活では皆勤で来れた。共同生活が出来ることは、人生にとって大事なことである。天塩に懸けてくれたとおもっている。先生有難う、今もなお感謝しています。

 でも、集団活動とかグループ活動とかは今でも苦手だ。別に人嫌いなわけではない。ただ、グループを作って一緒に行動するとか、チームの一員となって共通の話題にとけ込んで話し込むのが苦手なのだ。見栄っ張りで、目立ちたがり屋なのにグループの中にはとけ込めることが出来ない。話の中に入って行けず、1人だけ浮き上がってしまう。それが分かるから、集団で行動するよりも1人でいる方が気が楽だ。

 だから、自営、軽印刷業を選んだのかもしれない。多分そうだったのだろう。
 その嫌だった学校、まして職員室など大きらいであった。皮肉というか不思議というか、その学校がいまは私のお得意先、職員室の前に立ったときギクリとする。心の中に幼い頃の学校という思いがあるのであろう。あれから何十年たっても、トラウマが尾を引いている。


あの子はどこにいるの
あの子はどこに居るの
 もう一つ、その頃の思い出に小学校の奥に稲荷神社がある。その神社の御旅所の広場へ通じる小路があって、その場所で近所に疎開で来ていた、キヨちゃんという仲良しの女の子がいて、来る日もくる日も2人でよく遊んだ。

 春の日は雲雀の声を聞きながられんげ草の花をつみ髪の毛に挿し、花の首飾りをつくった。初夏の日は麦のうねの中でかくれんぼをした、意地悪をして出て行かなかったらあの子は泣いていた。また、メダカをとってといわれたが、私の小さい手ではとれなかった。秋の日は銀杏の落ち葉の上で、「あの子はだあれ」とか、「チンから峠」、などの童謡を歌って、よく遊んだ。

 やがて冬になり私の知らないうちに、あの子は大阪へ帰ってしまった。

 その時の心の淋しさはなぜだったのか。 幼いあの時の悲しみは結局、恋の始まりだったのか。幼いながらもその女の子を、いたわってやりたいとした、恋の始まりだったのかもしれない。

 その後あの子とは、1度も逢ったことはない。
 はるか遠くはなれて、時は流れすぎた。


 あの子、今ごろどうしているのやら。





  空  よ

作曲 難波 寛臣
作詞 難波 寛臣
歌 トワエ・モア


空よ 水色の空よ 雲の上に夢を乗せて 
空よ 私の心よ 
思い出すの幼い日を
ふるさとの 野山で 始めて芽生えた 
あどけない二人の 小さな愛

空よ 教えて欲しいの
あの子は今 どこに居るの

ふるさとの 野道で 堅く手を握った
あの頃の二人の 小さな小さな愛

空よ 教えて欲しいの あの子は今
どこに居るの
どこに居るの
どこに居るの


「空よ」の歌詞は、自分の考え方を補強する為、無断引用させていただきましたました。
 
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