青春のパラダイス
  
通学のため毎日この橋を渡った。
秋の夕暮れどき、この橋にたどり着けば、
県境の天女山に真っ赤な夕日が落ちる。
その夕日が吉野川の水面を照らす。



あの時から長い年月が過ぎた。
物覚えが酷くなり、その代わりに昔のことが鮮明に甦るようになった。

たったひと言「さようなら」と、この橋を渉って去って行った警察予備隊の隊員たちとの
忘れられない、あれは小学5年の暑い夏休みのことだった。


  
 五條には水泳の各分野において多くのオリンピック選手(大津町の坂本和子さんも)を輩出した吉野川です。この川に架かる橋の名前は「みくら橋」。この橋の下から200メートル程の間は緩い流れが続く。夏は私の避暑地で遊び場でした。毎日のように1人で自由に泳ぎ回り魚を獲っていました。

 私の家より見て向こう側の上野町の河原には、赤松の美しい平な松林があり、所々に植わっていた桜が綺麗で春には花見をした景色のよい所でした。現在はスポーツグランドになり、「上野公園」と呼ばれ、市民の憩いの場所になっています。もはや昔の面影は全くない。


  昭和26年夏、警察予備隊が来た。

 終戦間もない1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発し、在日米軍の大半は朝鮮半島に出動し日本防衛について空白が生まれた。 そのため、マッカーサー元帥の書簡により国内の治安維持を目的として、同年8月に「警察予備隊」が創設された。

 1952年(昭和27年)に「保安庁」が発足した。警察予備隊は海上警備隊及び海上保安庁航路啓開隊とともに保安庁隷下に入り、それぞれ「保安隊」、「警備隊」に改組され、その後自衛隊になる。      Wikipedia

 何時ものように魚を追っていた。その時、何台ものトラックが 松林にやってきた。ジープも来た。白い制服の大勢の男たちも来た。その様子を 私は川の水の中から見ていた。相手も私を見ていた。見る見るうちに沢山のテントが張られた。これは軍隊だと思った。

 おそるおそる向う岸のその人たちの前に行った。真赤な越中褌だけの私を見て、隊員たちは「小さいなー」といって歓迎してくれた。

 物珍しく部隊を見学する私に、隊長が、銃や建築土木機械・通信機器を説明してくれた。その中に三脚にセットされた銃があった。
 隊のシンボルともいうべき銃について「この銃は150メートルも向うの的を正確に撃ちぬくことができる」と説明してくれた。私は恐怖を覚えた。そして答えた「この向う岸の竹藪の上に、私の家があり、今頃おばあちゃんがお昼ご飯を作っているころだ。誤って弾が飛んでいったらおばあちゃんにあたるかもしれない」といった。それに対して隊長は何も答えなかった。

 やがて昼食の時間になり、隊長は私に「昼ごはんを一緒に食べよう」といってくれた。私は一緒に食事をしたかったが「他所で食事をしたら父に叱られる。家で昼ごはんを食べて午後からまたここに来てもいいですか」とたずねた。隊長は「もちろん 何時ここに来てもいいよ。ここは君の遊び場ではないか。来いよ。しかし、君のお父さんは他所で食事をしたら怒るのか。」
 「怒る、男は自分で稼いで食え。人に食わして貰うのは、乞食のすることだという。」私もそう思うと答えた。
「武士はくわねど高楊枝」か 隊長がいった。

 隊長は1人の隊員に命じ、私の食事を運ばせた。アルミニュウムの器に入ったカレーライスだった。
「味はどうだ」
「からい、でも美味しい、これはなんというお料理ですか」
「これはカレーライスだ。ご飯の上にカレーが乗っけてある。上がカレー、下がご飯(ライス) だからカレーライスというんだ」
 それは、褌一丁の姿で大勢の隊員に見つめられて、生まれて始めて口にしたカレーライスだった。嬉しかった。
 その後そこで一度も食事はしたことはない。戦後まだまだ食料不足のときだったし、学校給食は、脱脂粉乳、アルミ製コップ、一杯分の時だった。

 次の日隊長が私に言った。
「学校では出席をとるだろう。ここでは出欠は取らないから、君がここに来ているか来ていないかわかるようにしたい。そのために、この松の枝に水筒を掛けて置く。君がここに来たら、この水筒をもって行動するように、この枝に水筒が無かったら君は部隊の中に居るということだ。帰るときは水筒を元の枝に掛けて帰るように」といわれた。
 そして全員に言った。
「この少年の遊び場であるこの場所で、これからはこの少年と一緒に行動をする。子どもは国の宝だ大事に扱え、この少年を守るように」といってくれた。私はこれで隊の一員になったんだと感じた。
 そして1人の隊員を私につけるといった。その人は通信担当のかたでした。それからはその隊員とともに行動することになった。

 昨日ここに来たとき対岸に向かって置いてあったデッカイ銃がない。私が怖いと言ったので目につかないところに保管されたのかと思うと、なぜか隊長の鼻を折ったような気がして申し訳なく思った。 隊長は 私を気遣って別な場所に保管されたのだろうと思った。しかし、その後1度も武器を見たことがなかった。だから毎日安心して出向いて行けたのだろう。

 電鍵に向い、トンツー、トントンツーツー。つまみを親指と人差し指でつまむようにして軽く握り、上下に動かすことでモールス信号を送信するその隊員に憧れ、無線電信に興味を持った。大人になったら通信士になって大きな船に乗ることを夢見た。その夢は結婚するまで捨てきれなかった。

 朝早くおきて、ソソクサト夏休みの宿題をすませて急いで駐屯地に行く。目くるめく楽しい日々だった。でも、父や母は、そんな私の行動を見逃すことは無かった。

 ある日、隊長が双眼鏡を渡してくれた。そして、あの葦の中を見れといわれた。初めて目にした双眼鏡、遠くの物が大きく見える。隊長の指差す方向を見ると双眼鏡の中に母と姉が映っていた。
 隊長が言った「あれは君のお母さんとお姉さんだろう。時々様子を見に来ているよ。君がここに来ていることを家族の人にいってあるのか?家の人は駐屯地に行ってはいけないと言わないのか?」。 
 私は「行くと言ってある、邪魔なことはするなと言われている。」隊長は「そうか」と言っただけだった。

 しかし、父や母は危険の伴う駐屯地にいってはいけないとなぜ言わなかったか悩むことになった。
 その時の家族の心境はどんなものであったか母の三十三回忌に姉が話してくれた。
 「この川原に来た警察予備隊のことを憶えている?夏の暑い日だったのに朝早くから夕暮れまで、毎日毎日駐屯地へかよっていったことを。警察予備隊の駐屯地に一人で行くなんて、家中みんな心配してたんやで、心配で時々見廻りにいっていたんや。もし怪我でもしたら 隊のほうに迷惑をかけることになる、どうしようか家中思い悩んでたんやで。」と。

 母は、「それまでの日本は5年・10年と短い間で戦争があった。この先また戦争があるかも知れない。もし、そんな時が来たならば、こんな世界警察予備隊も見ておいても良かろう。」と、母は葦の葉かげで姉にそんなことを言ったそうだ。第2次世界大戦が終わって5年、一人息子を想って言った言葉だった。それは母は私に強い男になってほしいと願っていたのだ。といま思う。そんな母の願にはそえなかったのが断念なり。

 ある時はブルドーザーの運転を教わりハンドルを操作したり、モールス信号を送信する事も学んだ。
 隊長さんがジープで遠出をするときは必ず私を助手席に乗せてあちこちに連れて行ってくれた。行動を共にできないときは風通しのよい松の木陰で隊員たちに見つめられながら昼寝を楽しんでいたのだ。男の子として最高の時間を過ごさせていただいた。

 ここでの訓練もおわりに近くなり、私の目に映ったのは第2次世界大戦でアメリカ軍が使用したという、エンジンを取外した上陸用舟艇を、ワイヤーロープに繋ぎ、その上に板を並べて仮設の橋を作った。その完成した架設の橋を、隊長が運転するジープの助手席に乗せていただき渡った。隊員たちの拍手喝采を受け感動した。観閲官の気持ちを味わった。

 日本の防衛の黎明期、国防の任務がなかった警察予備隊は日本国内で一般の警察では対処し得ない場合にこれに対処するまさに警察の予備が目的でした。
 この人たちはこの松林に何をしに来ていたのだろうか。目立つものはブルドーザー2台と、ワイヤーウィンチ、トラック、ジープぐらいの装備で、何をするのか不思議でならなかった。

 しかし、情報を共有し、方針を決定する等の打ち合わせをしている会議のように見える場面が多かった。 国防の任務が、法に謳われる自衛隊設立に向けての、日本の防衛の基本、基礎をこの場所で培っていたのではなかったのか。


 やがて、隊員たちとの別れの日が来た。
 綺麗にあとかたずけをされた駐屯地をあとに、急坂を上り、御藏橋の中央まできて対峙した。私はたったひと言「さようなら」と。面倒をかけたあの通信隊員が隊を代表して「お元気で」と敬礼して去って行った。私は胸が詰まって何も言えなかった。
 四列縦隊で、揺れる吊橋を、歩きにくく渡って、3台のトラックに向い合って乗った。誰一人私のほうを振り還らなかった。車の発車と共に白い砂塵が舞った。その砂塵の消えた後には何もなかった。あんなに私を大切にしてくれ、やさしかった人々がすべて消えてしまっていた。その寂しさは何だったのだろうか。人と人の別れはこんなに儚いものだと子ども心に教えられた。
 2学期に入り、涼しげな秋晴れの日などは、寂しさを憶え物憂い日々が続いた。

通信隊員曽和稔さんが撮ってくれた写真。吉野川岸辺にて小学5年 季節は変わり晩秋の冷たい日に通信隊員から写真を添えた手紙がきた。(右の写真)
 「君と別れたあと、浜松で3か月の訓練を受け、明日配置転換を受ける、行き先は未定である。今日1日休暇があったので便りを書いた。これから自分はどこで勤務するか分からないから返事は出してくれても届かないだろう、だから手紙は出さないように。」
と書いてあった。
 慌ただしく移り変る日々を過ごされていたのだろう。私の事は忘れられていなかったのだ。また、元気をもらった。そんな気がしてうれしい日々が続いた。
 夢と希望をいただいた憧れた人からの手紙はもう無い、でも名前はいまも私の心をえぐるように刺さっている。有難う。


 翌年に「保安庁」が発足「保安隊」、「警備隊」に改組され、その後自衛隊になる。

 あの日、汚れた半長靴を履いていた隊長と二人で水の流れを見ていたとき、「君が年老いた日に、この場所から見た景色はどう変わっているだろうか。」と隊長がつぶやいた。


 日本が戦争に負けた昭和20年(1945年)8月15日の1週間前の8月8日、けたたましくなる半鐘の音、それに続く金属音、グラマン機の飛来。私は防空頭巾にちゃんちゃんこを着せられ、土手に横穴を掘ってあった防空壕に、おばあちゃんにおんぶされ入っていた。その時、五條・北宇智3か所が爆撃を受けた。そして敗戦。その後今日まで戦いの無い平和な時を過ごさせてもらった。心優しき警察予備隊の方たちを交えた、先人先輩たちのお陰だと心より感謝している。そして、一発の銃弾も敵機も飛んでこなかった。戦のため一人の人間も銃で殺すことのなかったこの国を誇りに思っている。


 警察予備隊と別れた日から73年が過ぎた。
 わたしは今この河原に立ち四方おし眺めた。五條市は明治維新発祥の地として栄え綺麗で平和な町である。北は緑の大樹の茂る金剛山、東から南は516億円かけての国家プロジェクト・パイロット農場は食糧の宝庫だ。北から西へと続く夢運ぶ京奈和自動車道。
 空は青澄める、河は藍清く、我が、ふる郷は緑なり・豊なり。
  
  10歳の時に誰もできなかっただろう体験をした、あの夏休みの宿題を、今書き終えたと思う。

 拙い文章ですが警察予備隊の方々に捧げます。
  



青春のパラダイス
岡晴夫さんの歌声はすてきです。戦後、心が沈んでいる時に、日本頑張れと 
励ます応援歌だと思いました。
吉川静夫:作詞  福島正二:作曲  岡 晴夫: 唄
昭和21年 発売
1
晴れやかな 君の笑顔
やさしく われを呼びて
青春の 花に憧れ
丘を越えてゆく
空は青く みどり萌ゆる大地
若きいのち かがやくパラダイス
ふたりを招くよ
 
2
囁くは 愛の小鳥
そよ吹く 風もあまく
思い出の 夢に憧れ
丘を越えてゆく
バラは紅く 牧場の道に咲く
若きいのち あふれるパラダイス
ふたりを抱くよ
 
3
花摘みて 胸にかざり
歌ごえ 高くあわせ
美わしの 恋に憧れ
丘を越えてゆく
ゆらぐ青葉 白き雲は湧きて
若きいのち うれしきパラダイス
ふたりを結ぶよ
 
 
 
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