懐かしのブルース
 
呼んでみたって 呼んでみたって 遠い人
何故に昔を 呼びかえす


 老いてもの覚えが酷くなった、その埋め合わせのように鮮明に昔の記憶が蘇るようになった。
幼い日の思い出の一つに。
 隣家に住んでいて特攻隊として予科練(海軍飛行予科練習生)に行ったお兄さんのことを思いだします。
 農業で忙しい父母のかわりによく私を子守してくださったようです。兄は登さん、弟は昭二さんといいました。

 登兄さんの出陣は寒い雪の降る日で、私は母に背負われて国鉄大和二見駅まで見送りに行きました。戦争映画でよく見かける出征兵士を送るシーンです。いまでもかはっきりと覚えています。煙突からモクモクと吹き上げる煙、日章旗で飾られたでっかい機関車だった。大勢の人々の喊声、忘れられぬ光景だ。4歳位かな、片道早く歩いても30分はかかる砂利道を今生の別れになるかもしれないとの思いからか、幼い私をおんぶして見送りに連れて行ってくれたのだと思った。さぞ、重たかっただろう。

 その帰り道、駅の近くに瓢箪(ひょうたん)池という名の池があり、堤防には橡(くぬぎ)の木があった。池の表面は薄く氷が張っていた、その上に一匹の白い蛇がいるように見えた、「おかちゃん、あそこに白い蛇がいるよ」と母に言った。母は「蛇はこんな寒い日には出てこないよ」と答えた。母は池なんか見ていなかったように思った。やがて、お父さんも戦場に行かなければならない日が来るであろうと覚悟を決めていたようだ。父と一緒に兵として訓練を受けた10人の方までが戦地へ行って戦死、父は11人目であった。父や母の心中如何許りか。そうして夏になり終戦。父は戦場に行かずにすんだ。

 登兄さんは終戦の1か月前中国湖南省にて戦死(23才)帰ってこなかった。
 特攻隊にいっていた昭二兄さんは帰ってきた。そして、以前のようによく遊んでくれた。お兄さんは戦後の復興に人のために頑張ると役場づとめをした。私には歌をよく歌ってくれた。「若鷲の歌」「青春のパラダイス」「憧れのハワイ航路」等々。レコードもラジオも聞けない子どもの時に覚えた歌だ。母はよく人に言った、「この子がどこに居るか探さなくてもよかった、いつも歌っていたので居場所がわかった。子守りの要らない子だった。」と。
 私の唄好きはそこから始まったのかもしれない。

 そんな楽しいときもそう長く続かなかった。兄さんは忽然と姿を消した。松山航空隊、在隊中の余病再発のためサナトリウム(長期療養所)に行った。そして帰らぬ人(24才)となった。居なくなった兄さんを探しまわった、その探しまわる私の姿は見るのも悲しい光景だったと兄さんのお父さんお母さんが言っていたそうだ。
 人の死とはどういうことかまだまだ解らないときのことだ。生きていてくれたら私の人生も性格も変わっていたと思う。

君の名は 昭二兄さんが私の写真と一緒に残してくれた色褪せた若い女性の小さな写真、恋人だったのか映画スターのブロマイドだったのか私には判らない。

 高校生になって3年間国鉄大和二見駅で上下車した。瓢箪池も見て通学した。しかし、あの日の出来事は思い出すこともなかった。白い蛇の想い出も忘れていた。

 20歳のころ年老いて小さくなった兄さんのお母さんは、農作業をしているとよく私のそばに来て団扇(うちわ)で煽ってくれた。そして、夕方になっても家に帰らず私の傍にいた。軽くなった身体をおんぶしてよく送ってやった。亡くした息子たちと私をダブらせていたのだろう。もっと孝行をしておけばよかったと悔やまれてならない。隣家の柿

 お婆さんが無くなって隣家は絶え家もない。今は樹齢百年以上も経った柿の木が1本残っている。秋には実を取る人も無く沢山の実をつけている。





  影を映した水溜り

 人間83年やってきて、身も心も錆びついた。健康のためとおもって時々歩いている。雪が舞い散る寒い日だった、やめようかと思ったが散歩に出た。国道24号線へ出た。あの瓢箪池の周辺にはスーパーもでき、コンビニエンスストア、ホームセンターいろいろ立ち並んでいる。近年暖冬のせいか池に氷が張るようなことはなかったが、その日は殊に気温が低下していたのであろう。何気なしに水面を見たとき、心の奥底にあった謎が一気に解けた、簡単なことだった。いまでもあの時のように一本の橡がある、その枯れた枝が池に落ち表面に出た部分に雪が積もり白い蛇のように見えた。母は「蛇はこんな寒い日には出てこないよ」といった。4歳の幼い時には白い蛇だと思ったのだろう。

 何故この年になって思い出したのだろうか。「父や母や、多くの人々の優しさ、人の世の悲しさ、儚さ、生きていくための厳しさを教えてくれた人たちを忘れず、その人たちの分まで『清く、正しく、優しい心をもって強く生きて行けということだろう。」そう思って涙ぐんだ。
 母が死んで47年父が死んで40年。隣の兄さんたちの死はもっともっと昔。

 私は、いわゆる焼け跡世代の人間である。生まれた年に戦争が始まったが、もの心ついたときから戦いの無い平和な時を過ごさせてもらった。先人先輩たちのお陰だと心より感謝している。
 そして、戦(いくさ)のため1人の人間も銃で殺すことのなかったこの国を誇りに思っている。




焼け跡世代
 太平洋戦争が始まった1941年(昭和16年)から終戦の翌年である1946年(昭和21年)まで幼少期と少年期を第二次世界大戦中に過ごした世代。
 この世代の人は第二次世界大戦中に防空壕と焼け跡の中で過ごし、飢餓や経済的困窮、放射性被害など戦争による被害に苦しんだ。青空教室と闇市を経験した者もいる。大日本帝国憲法が廃止され日本国憲法が施行される一大パラダイムシフトを体験した世代でもある。軍国主義教育と民主主義教育の両方を経験し、第二次大戦の記憶を持つ最後の世代である。 Wikipedia




なつかしの ブルース

古い日記の ページには
  涙のあとも そのままに
  かえらぬ夢の なつかしく
    頬すり寄せる わびしさよ
  ああ なつかしの ブルースは
  涙にぬれて 歌う唄

ひとつ浮雲 夜の空
なぜにか胸に しみじみと
思い出遠く ながれ行く
   心にも似た かなしさよ
   ああ なつかしの ブルースは
   ひとりさびしく 歌う唄

重く悲しい 歌なれど
生きて行く身の つれづれに
夕闇遠い 行く末の
のぞみはかなく くちずさむ
ああ なつかしの ブルースは
この世の夢を 歌う唄

作詞:藤浦  洸
作曲:万城目 正
唄 :高峰三枝子

唄 :三田 明


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