阪合部地区の概要 旧跡と伝承 

位 置 面 積犬飼町24号線
 五條市中心地域より南西約4キロメートル、五條市二見地区に接する犬飼町より始まり地区内を流れる吉野川(和歌山県に入り紀の川となる)を挟んで河南11ヶ町(中町、黒駒町、大野町、樫辻町、山陰町、表野町、大津町、火打町、田殿町、大深町、阪合部新田町(大平町)と河北3ヶ町(相谷町、上野町、犬飼町)の14ヶ町となり、明治の市町村制実施(明治22年)に際し坂合部郷の旧名を用い村名として宇智郡坂合部村の自治体構成を以て発足(大正期に入り坂合部村が阪合部村となる)明治、大正、昭和の地方自治を図られた。

 時代の要請と共に昭和32年10月近接2町7村(旧宇智郡)が合併して市制(五條市)となる。その後も行政、教育等の便宜上阪合部地区として地名を使用し教育、文化、産業等の振興に共同体として活躍している農山村地帯で南北、7、9キロメートル、東西3、5キロメートル、周囲23、1キロメートル、面積2、127平方キロメートル、山地は全面積の約3分の1を占める吉野川に沿う段丘地帯となっている。平地は水田、畑に丘陵は果樹園に山地は森林となっており、一部はゴルフ場に利用されている。東北は五條市二見地区と南宇智地区に、東は西吉野町に、北は牧野地区、南と西は和歌山県に接する県境の地である。尚、方位から見れば北緯34度15分、東経135度39分附近にある。中遺跡

阪合部文化の黎明
 当地区を貫流している吉野川沿いに文化の黎明が発展したらしく、先史時代集落跡の中町(中遺跡の縄文土器並に弥生土器)火打町(火打遺跡の銅鐸)等が出土している。いずれも吉野川流域であり、少くとも6、7千年前から先住民が狩猟や漁労にそして弥生文化時代には大陸から北九州地方を経て近畿地方へ、そして文化の流通路でもあった。
中遺跡土器 川をつたって当地方へも稲作農耕、金属器の使用等が開始せられたものと思われる。(紀元前2世紀から3世紀頃)斯くして幾千年の歴史も宇智平野を中心に政治、文化、宗教、教育、産業の変転を直接、間接の影響を受けながら推移して来た。




阪合部の名称と成立
 坂合部とは職掌より生じた部の一つと云われ「新撰姓氏録考証」には「坂合部は境域の定むる職掌により生じた氏なり」云々とみえ境部、堺部、等とも書かれている。鎌倉時代から境界を裁定する管掌者である坂合部氏の氏族名をとって「坂合部郷」といわれるようになった。
 「大和志下巻554頁」に「坂合部郷」は坂合部氏がかつて、ここに住せしより地名となった。と書かれている。「姓文録」には「坂合部連同大彦命之後也、允恭天皇御世造立国境之標因賜姓坂合部連」とある。

 西暦443年「倭王済(允恭天皇)宋に使を遺す云々」とある処から、すでに国境が出来、坂合部連の名がつけられたようである。
 平安期の仁安3年(1168年)に坂合部荘(東大寺荘園)鎌倉期(1192〜1333)以降から「坂合部郷」と云われるようになっている。
南朝の武士

坂合部領主の変転
 坂合部氏は職掌により古くより領主としてこの地を統治し、奈良朝(710〜794)に入り東大寺や正倉院にも出仕したともいわれ、鎌倉幕府(1192〜1333)時代には領主から地頭職となり坂合部城に拠る時代となる。
 南北朝時代(1333〜1392)には南朝側となりその戦いに関与した。應永2年(1395年)坂合部氏は守護畠山氏の配下となり天正年間におよんでいる。このころから坂合部氏は隅田党と共に反高野山の存在であった。
永禄証文
 室町時代(1392〜1467)はすぎ、戦国時代(1467〜1573)となり、世の中はあわただしくなる。
 中央から離れたこの地方にも戦火の余波を受けるようになり、応仁の乱(1467年)も鎮まった文明9年(1477年)頃から坂合部氏にも平穏でない時代を迎えるようになり、領内の統治を強化するため、領主紀伊守次房の時文明18年(1486年)念仏寺鬼面作成、明應5年(1496年)正月11日坂合部証文通称(明應證文)、永正7年(1510)5月11日(永正證文)、永禄11年(1568年)9月19日永禄証文等を出し、郷内境界並に氏神、氏寺等のまつりごとに関する取決めを行ったが、此の頃各地に於て小ぜりあいが多く、坂合部氏も高野僧徒の攻勢にあうようになり、坂合部城跡永禄10年(1567年)領内に侵入して来た高野僧徒の防戦をはかり、激戦をくりかえしたが、再三にわたる攻撃を受け天正2年(1574年)6月10日、(五條市史史料644頁)遂に坂合部城は落城(時の坂合部城主、長部太夫頼重)。
 坂合部氏の一党は隅田氏へ亡命、高野僧徒郷内を平定して占拠する。坂合部氏の一党は豊臣秀吉軍の高野平定後郷内にもどり歸農するもの、または遠く尼ヶ崎方面へ亡命する者等あり離散したと云われる。

 坂合部殿證文(古澤氏に伝わる古文書。現在、五條市博物館に3巻が保管され1巻は陳列されている。)五條市博物館

 豊臣秀吉の天下となり高野山を放任出来ず天正13年(1585年)秀吉は兵を紀伊に進め根来寺を討ち次いで高野山を降した。そこで秀吉はその弟秀長に和泉、紀伊および大和の三国を与えて郡山城に入城、秀長の直領となる。秀吉亡きあと徳川家康関ヶ原の役(1600年)に於いて石田三成を破り実質上天下をとる。その関ヶ原の戦功により、赤井氏旗本給人領として相谷村、上野村(一部幕府直領)犬飼村が配され幕府直領は中村、表野村、樫辻村、根来氏領は黒駒村、大野村、山陰村、大津村、火打村、田殿村、大深村、尚、阪合部新田村は元禄15年(1702年)新設せられ赤井氏領となっているが幕末期には幕府直領地となっている。

 寛政2年(1790年)に五條市代官所が設けられ、幕府直領地は五條代官支配のもとに明治維新に至った。

氏 神 ・ 氏 寺
 坂合部氏は去っても阪合部地区民はそのまゝの名称を以て郷山の共同用益を近世を通じて維持して来た。また結合を強化するため郷の氏神、氏佛が祀られている。
 氏神については「氏神之儀御霊大明神ニ而黒駒村ニ有之候、坂合部郷十三ヶ村社ニ御座候」と、氏佛については文化13年(1826年)「為取替申書付之事」に「大津村念仏寺儀ハ坂合部郷十三ヶ村氏佛ニ而云々」として古くより、正月14日修正会を勧めおる事、 尚、安永2年(1773年)「大津村村鑑明細帳」にも鬼走り行事についてその伝統を記されている。

近世廃藩置県

 明治の近世となり明治4年(1871年)7月14日廃藩置県となり、3府302県を設けられたが同年11月22日までに3府72県となった。
 明治21年(1888年)4月25日市制及町村制が発布せられる。村役場
 明治22年(1889年)3月11日より当地区は坂合部村との名称をつけ地方自治体として発足した。(明治24年末の坂合部村の世帯数は426戸、人口2,328人となっている。)
 尚、明治4年時代には五條県、明治9年(1876年)からは堺県宇智郡であり、また明治14年(1881年)には大阪府下大和国宇智郡管轄下となり、明治20年(1887年)奈良県下となり、明治22年から奈良県宇智郡阪合部村、昭和32年(1957年)五條市発足と共に宇智郡役所は廃止せられた。

教   育
 教育も徳川幕府時代の寺小屋式から明治時代に入り明治5年(1872年)8月3日学制頒布せられ明治10年代には表野小学校(表野、火打、大津)、山陰小学校(山陰、黒駒、中、大野、田殿)犬飼小学校(犬飼、上野、相谷、畑田、山ノ原)、大深小学校(大深)樫辻には簡易科教場が置かれた。明治19年(1886年)表野小学校は山陰小学校に統合、樫辻分教場の児童は明治31年賀名生北曽木小学校に委託させた。この学区で大正5年まで教育がおこなわれた。
 犬飼小学校については明治7年5月17日転法輪寺を借用して犬飼就教舎として畑田、木ノ原、大沢、犬飼、上野、相谷、新田、各村児童、男25、女13、教員2名により開設せられた。
 当初は第3大学区、第15番中学区、第94番小学校と名づけられたが番号では親しみにくく、誤りも生じ易いので学舎で呼ぶことが多く、明治8年に至り犬飼小学校となった。阪合部村立第二小学校の前身である。大正7年3月31日学区が廃止され、教育の整備充実がはかられた。

 昭和16年(1941年)3月1日「国民学校令」の公布により4月から国民学校とよばれることになった。
 尚、学校教育の過程に於て、明治19年頃には義務教育4年であったが、明治40年からは6ヶ年となり尋常小学校6年、高等小学校2年の制度が成立し阪合部地区では山陰小学校が山陰尋常高等小学校の1校があった。
 昭和10年4月1日から青年学校令の公布があり、阪合部村立農業青年学校もあった。

 昭和22年3月31日教育基本法と学校教育法が制定公布により、六、三、三制の新学校体系ができた。
旧阪中
 同年新学制による中学校は阪合部村立阪合部中学校として開校。昭和24年中町地区の元小学校運動場跡に新設。但し場所適当ならず昭和31年校舎を移転。その阪合部中学校も昭和42年五條市立五條中学校に統合し18年で廃校となる。

 小学校も昭和32年市町村合併に伴い、阪合部第1第2小学校を統合し校舎を新築し、五條市立阪合部小学校として発足。阪合部村立大深小学校も五條市立大深小学校となっている。

 平成15年4月阪合部小学校と大深小学校が統合され五條市立阪合部小学校となる。
 平成15年7月10日 新校舎が竣工される。

交  通県境真土峠
 交通網も古くは伊勢街道と称して昔の大和の国と紀伊の国の境に至る通称、待乳峠と云われている峠越えとなっており、この峠に大和を出る人も大和をさして帰る人もこの地が望郷の情たえがたい場所となることは万葉の古歌によってもうかがわれる。
 また、河南街道と呼び、紀伊(橋本市恋野地区)より県境のビワノコ川を渡り火打、大津、中、黒駒を経て、御山、下市方面に通ずる道路。富貴街道は火打県境のビワノコの渓谷を避けて火打より南に尾根伝いに登り大深茶屋垣内(茶屋垣内は往時道行く人の休息場所でもあった。)を通り西富貴に至る主要道路で地区内を流れる吉野川と共に文化流通の主流となっていた。

 昭和50年代に農免道路として御山町より大野、山陰、表野、火打を通って和歌山県へ通ずる新線が設けられ産業交通の要路を開通すると共に各線も改修改良を講じられつつある。現在、真土峠(待乳峠)越えは国道24号線、富貴街道は県道五條阪本線としてそれぞれ路線も変ったが交通の要路である。

鉄  道
JR和歌山線 JR(国鉄)和歌山線は五條〜和歌山間に紀和鉄道の計画により明治31年(1898年)五條〜橋本間、明治32年五條〜和歌山間の全線が開通した。
 明治37年(1904年)12月に関西鉄道が買収、更に明治40年10月日本国有鉄道に買収されて和歌山線となった。昭和62年国有鉄道の民営移管によりJR西日本鉄道和歌山線として現在に至る。
 昭和61年度に於て全線電化となる。

索  道
 当地区内を通過していた索道は明治45年(1912年)二見川端より富貴(和歌山県)に架設され、大正6年(1917年)には天辻峠を越え大塔村坂本まで開通した。延長16キロメートルで日用物資一般貨物の運輸を取扱っていたが昭和の頃より立里鉱山の鉱石(銅)運搬も行う。但し、立里鉱山も廃坑となり時代の流れと共にトラック輸送等近代化に伴い、昭和30年代に索道事業は廃止となる。

河 川 輸 送
 地区内を流れる吉野川も古代より最も主要な交通手段として利用、文化の交流にも大きく貢献してきたが、今は自動車運送に変り明治15年頃の船数99艘も今はなく、風をはらんだ白帆の舟も見られず、木材輸送の重要手段だった筏流しの風景も姿を消し、今は静かな流れのみが往時をしのんでいる。
S26-御蔵橋
 犬飼〜中、相谷〜大津、黒駒〜川端間に渡場あり、川南、川北を結ぶ但一の交通機関であった。犬飼〜中間の渡しを御蔵(ミクラ)の渡しと云い、昭和6年頃、吊橋がかかり廃止、大津〜相谷間は、昭和31年まで利用したが橋梁となり廃止、当時を知る者の懐しい想い出となっている。黒駒〜川端間も昭和30年頃まであり、3渡舟場共阪合部村営であった。

土 地 利 用
 古代中世当初の土地利用の開発は未開発に近い位に遅れていた。それが開発されるようになるのは中世後期以降であり、郷村が形成し、村民達により段丘上部で小谷を堰止めて多様な規模の溜め池の造成、並に谷川の利用構造を図るようになってから次第に段丘上の水田化がすゝむ一方、近世中期には綿作も普及し水田、畑等の開発も充実し、山林斜面には山林の育成、柿等果樹栽培(大正末期頃より)も始まった。
 パイロット農場
 国営五條吉野総合農地開発事業
 昭和49年4月開拓基本計画決定より丘陵性土地を利用した国営総合農地開発事業(パイロット事業)も計画し、当地区内に於ては御山団地、火打団地、保天山団地も造成、果樹生産地として推進してきた。
 五條市、下市町および西吉野村(現在は五條市西吉野町)の3市町村に広がる山林等680haを開畑し、果樹畑426haを導入。
 スタートしてから28年、総事業費516億円をかけて平成14年3月事業完工。



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